2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」では岩田剛典が阿部正弘役を演じています。
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阿部正弘とは
備後福山藩の第7代藩主だった阿部正弘は幕末期に老中筆頭として安政の改革を主導するなど活躍しました。その足跡をたどってみます。
老中を務める譜代大名、阿部家
阿部正弘は文政二年(1819年)、第5代福山藩主、阿部正精(まさきよ)の五男として江戸で生まれました。
父、正精をはじめ、祖父で4代藩主の正倫(まさとも)、曽祖父で3代藩主の正右(まさすけ)はいずれも老中を務めており、幕閣を構成する譜代大名の家柄でした。
父が亡くなった後、家督は兄、 正寧(まさやす)が継ぎ、第6代藩主となりますが、天保七年(1836年)に病弱を理由に家督を弟の正弘に譲っています。
福山藩の石高は10万石でしたが、江戸城西の丸の造営に関する功により嘉永五年(1852年)、正弘の代で1万石加増され、11万石となりました。
福山藩、第7代藩主に就任
阿部正弘は藩主就任後、領国福山に入ります。代々、幕閣の重職に就いていた阿部家の当主はほとんど江戸に常駐しており、領国経営にあまり熱心ではありませんでした。正弘も福山に入ったのはこの時だけでした。
備後国福山城

天保九年(1838年)、奏者番の役職に就きます。奏者番は譜代大名が最初に就くポストであり、出世のための最初の登竜門と言えます。その後、天保十一年(1840年)には寺社奉行となります。寺社奉行は奏者番が兼任するポストです。
寺社奉行として阿部正弘は大奥の女中と僧との密会事件である智泉院事件の摘発と処理を行い、12代将軍、徳川家慶から手腕を評価されます。
延命院日当話 (新撰東錦絵)/月岡芳年


老中抜擢から老中首座へ
その後、天保十四年(1843年)に25歳で老中に抜擢されます。40代半ば頃に老中に就任する者が多い中、異例の若さだったと言えます。前述のように老中就任が見込める家柄だったこともありますが、もちろん優秀な人物であったことも間違いないでしょう。
さらに弘化二年(1845年)には天保の改革に失敗後、再び老中首座に返り咲いていた水野忠邦に代わって老中首座となり、以後、10年ほどその座に就きます。
弘化二年の弘化武鑑を見ると、老中として阿部正弘が記載されています。老中職に就くと従四位侍従という大名として高い官職を得ることができます。

安政の改革
幕府財政の危機に加えて、異国船が現れ、旧態依然たる方法では国難に対処できないと判断した阿部正弘は改革を断行します。いわゆる安政の改革です。
経済的には水野忠邦の天保の改革の際に行った株仲間の解散が経済を混乱させたことから、再び、株仲間を再興しています。
また、異国の脅威に基づき、軍事力強化に努めるとともに、従来、政治を担っていた譜代大名に加え、そこから排除されていた親藩大名や外様大名、さらには一般の人々にも意見を募り、国難を乗り切ろうとしました。
こうした変化により、薩摩藩の島津斉彬、水戸藩の徳川斉昭などが政治の舞台に台頭してきます。ペリーが来訪した時、徳川斉昭を海防掛参与に就いています。
また、軍事及び外交を強化するため、講武所、蕃書調所、長崎海軍伝習所などを設置するとともに、それを担う多くの人材を登用しています。
国難的事態に対して、従来の慣習を破ってでも対応しようとしていたことがうかがえます。
異国船来航の時代
阿部正弘の老中時代は異国船の来航が懸念されていました。そのため、弘化二年(1845年)に海岸防禦御用掛(かいがんぼうぎょごようがかり)、いわゆる海防掛を常設しました。例えば、勝海舟も海岸防禦御用掛として抜擢されています。
翌弘化三年(1846年)にはアメリカ東インド艦隊司令官のジェームズ・ビドルが軍艦コロンバスとビンセンスを率いて浦賀に来航し外交関係を求めました。しかし、鎖国を理由に正弘はこの要求を拒否します。このときビドルは威圧的手段はとらず結果的に失敗しました。この教訓はペリーの威圧的外交姿勢につながったとされています。
嘉永六年(1853年)、アメリカ東インド艦隊司令官のペリーが四隻の軍艦で浦賀に現れます。翌年、再び来訪し、やむなく日米和親条約を結ぶことになります。
こうした中、幕府内でも攘夷派と開国派、保守的な門閥譜代大名と外様大名、親藩大名との対立など複雑な様相が生じます。
安政二年(1855年)、攘夷派の中心的な人物であった水戸の徳川斉昭の要求で開国派の老中、松平乗全と松平忠優が罷免されます。しかし、開国派の堀田正睦(まさよし)を老中とし、さらに老中首座も譲ります。こうして、攘夷派と開国派のバランスに努めていました。
阿部正弘は、老中首座を明け渡しましたが、実質的な権力は引き続き阿部が握っていたとされています。様々な問題が山積する中、重責を担ってきた阿部正弘は心労もあったのか体調が悪化していきます。
そして、安政四年(1857年)に39歳の若さで亡くなります。翌年に保守門閥層を代表する井伊直弼が大老に就任し、いわゆる安政の大獄へとつながっていきます。バランスを保っていた阿部正弘が亡くなったことで幕末の激動がさらに加速していきます。


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