2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」では青木崇高が栗本鋤雲役を演じています。
医師、喜多村家に生まれた栗本鋤雲
栗本鋤雲は文政五年(1822年)に医者だった喜多村家七代目の当主、喜多村槐園の三男として生まれました。母は三木正啓の娘です。
名は鯤(こん)で、初名は哲三、栗本家に養子に行った後は瑞見を名乗りました。。通称は瀬兵衛(せへえ)です。号は匏菴(ほうあん)であり、鋤雲というのは官を退いた後、使っています。
以下の文化十三年(1816年)に出された文化武鑑を見ると、父の喜多村槐園(安正)は幕府の表御番医師を務め、俸禄350俵を受けています。また、小川町表猿楽町に居住していることがわかります。鋤雲もここで生まれ育ちました。父はその後、寄合医師となっています。

喜多村家の家督は長男の喜多村直寛が継ぎ、医官として幕府に仕えています。鋤雲は父が50歳を超えてから生まれた子で、長男の直寛と三男の鋤雲は17歳ほど年齢が離れていました。
養子として医師、栗本家を継ぐ
こうした医者の家系に生まれた鋤雲は医師になるべく勉学に励みます。天保九年(1838年)には安積艮斎の私塾、見山楼に入門します。この見山楼は旗本である小栗家の敷地内にあり、ここで小栗上野介忠順とも知り合います。鋤雲は文政五年生まれ、小栗忠順は文政十年生まれなので、鋤雲のほうが5歳ほど年上です。
その後、幕府の学問の総本山ともいえる昌平坂学問所に入り優秀な成績を修めます。
嘉永元年(1848年)に奥医師を務めていた栗本家を継いで、栗本姓を名乗ります。栗本家の当主は代々、瑞見と称していました。
元々、栗本家は紀州藩に医師として仕えていましたが、紀州藩主徳川吉宗が8代将軍となるとき、江戸に来て幕府の奥医師となり、300石の家禄を得ます。この時、多くの紀州藩士が旗本として幕臣に取り立てられていますが、それと同じケースだったのでしょう。
嘉永四年(1851年)の嘉永武鑑には以下のように栗本鋤雲(瑞見)が寄合医師として記載されています。300石の家禄を得ていることがわかります。

函館に左遷
安政年間に一時、謹慎処置となります。これは奥医師であった岡 櫟仙院(おか れきせんいん)の讒言だと言われています。幕府海軍の練習艦、観光丸(オランダの軍艦スンビン号)の試乗者の募集に応じようとしたことに起因すると言われています。これは鋤雲のチャレンジスピリットを示すエピソードです。
安政五年(1858年)に幕命で蝦夷地(北海道)の函館に赴任します。左遷と言える人事ですが、ここで鋤雲は大活躍をします。山の上町遊廓の梅毒を駆除するための箱館医学所の設置、七重村に七重薬園を開園、船運開通や食用牛の飼育事業、養蚕事業等、様々な事業を行います。
武士に昇格
こうした功績を受けて文久二年(1862年)に医師から武士へと取り立てられ、函館奉行所組頭に任じられます。組頭は奉行のすぐ下の役職で、当時の武鑑を見ると300俵の役高となっています。そして、千島や樺太を探検します。
函館にいるとき、フランス人宣教師のメルメ・カションと知り合い、互いに日本語とフランス語を教え合いました。元治二年(1865年)に小栗上野介や栗本鋤雲らが横浜に横浜仏語伝習所というフランス語学校を作りますが、そこの事実上の校長にメルメ・カションが就任しています。
外国奉行に就任
文久三年(1863年)には江戸に呼び戻され、その後、昌平坂学問所の頭取、目付、製鉄所御用掛、外国奉行と次々に要職に起用されます。外国奉行は勘定奉行、箱館奉行と兼任でした。フランスとの橋渡し役を期待され、幕府による日本の近代化に尽力しています。また、従五位下・安芸守という官職を授かっています。
慶応三年(1867年)の大成武鑑には石高2000石の外国奉行の項に「栗本安芸守」として記載されています。

幕府の崩壊とジャーナリストへの道
その後、フランスに渡り外交交渉等に尽力していた間に幕府が崩壊したことで、帰国しました。フランスに精通していた鋤雲は明治政府にとっても魅力的な人材であり、誘いもありましたが、「ニ君に仕えず」と明治政府には出仕しませんでした。
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その後、横浜毎日新聞や郵便報知新聞などでジャーナリストとして活躍しました。
島崎藤村と栗本鋤雲
明治五年(1872年)生まれの島崎藤村と栗本鋤雲は55歳ほど年の差がありますが、若き日の藤村は鋤雲と交流がありました。島崎藤村の代表作ともいえる「夜明け前」には鋤雲が喜多村瑞見として登場しています。
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栗本鋤雲の著書
著書としては「匏菴遺稿」や「暁窓追録」などがあります。
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また、以下のような研究書があります。
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