2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」では荒川良々が三野村利左衛門役を演じています。
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三野村利左衛門とは
三野村利左衛門は文政四年(1821年)に生まれました。庄内藩士の関口彦右衛門為芳の三男とされていますが、出自の詳細は不明のようです。7歳で木村家に養子に入っていた父が浪人となり、諸国を流浪するようになりました。
こうした経歴から正式な教育を受けたわけではなく苦労人であったと思われます。しかし、日々の生活実践を通じて、民俗学者、宮本常一の言う世間師的な知性を持った人物だったと思われます。
渋沢栄一は三野村利左衛門を「無学の偉人」と呼びましたが、こうした実践的な知性に裏付けられた人物として評価していたのでしょう。
美野川利八の誕生ー小栗家奉公から両替商へ
その後、天保十年(1839年)に江戸へ出た利左衛門は深川の干しいわし問屋である丸屋へ奉公しました。その後、小栗家に中間として奉公することになります。小栗上野介忠順は文政十年(1827年)生まれなので、利左衛門のほうが6つほど年上ということになります。
働きぶりは高く評価されており、その後、弘化二年(1845年)に菜種油や砂糖を商っていた紀ノ国屋の美野川利八の婿養子として迎えられます。こうして後継ぎとなり、利八の名を継ぐことになります。
さらに商いに励み、安政二年(1855年)には両替株を買うことで両替商となります。このように諸国流浪の身から両替商にまでなっており、並々ならぬ商才の高さがうかがえます。
三野村利左衛門の誕生ー万延貨幣改鋳と三井への接近
黒船の来航と共に幕末に徳川幕府が長らく続けていた鎖国政策が終わりを告げます。欧米の圧力により開港に踏み切ったことで、国際社会と経済的につながることになります。
当時、欧米では「金高銀安」と金の価値が相対的に高く、逆に日本は「金安銀高」と銀の価値が相対的に高くなっていました。つまり、欧米側は銀を持ち込み、日本で金に換えるとその差額で莫大な利益が出るようになっていました。
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そのため、日本から急激に金が流出する事態を招きます。これも大きな要因となりハイパーインフレが起こります。これを防ぐため、万延元年(1860年)に安政に続き再び貨幣の改鋳を行い、金の含有量を低くした貨幣を鋳造します。
こうした貨幣改鋳の情報を小栗忠順から得た利左衛門は天保小判を買い占めて巨額の利益を得ました。何だかインサイダー取引のような感じですが、政商的な動きをしていたと言えるでしょう。
こうした情報を通じて三井家とも結びつきます。そして三井家に対する幕府の過酷な御用金の要求に対する交渉で功績があり、慶応二年(1866年)には三井家に雇われ、取締役ともいえる「通勤支配」となります。これは小栗忠順との仲介役を期待されていたからです。
この頃、名前を三野村利左衛門に変更します。この三野村と言う姓は三井の「三」と、婿養子となった美野川利八の「野」、さらに父親が養子に入った家の姓である木村の「村」を合わせたものとされています。
三井家中興の祖
江戸から明治へと時代が大きく動く中、三井高利以降、大商人としての地位を築いていた三井家も大きな岐路に立たされます。小栗忠順との強い関係を持ちつつも、時代の流れを冷静に感じ取っていた利左衛門はいち早く新政府との関係を築き、明治以降の三井の発展につなげます。三井の大番頭であった三野村利左衛門が三井中興の祖と言われる理由です。
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利左衛門は単独で銀行を作ろうとしますが、大蔵官僚であった渋沢栄一の反対で実現せず、明治六年(1873年)に小野組と合同で第一国立銀行を設立します。その後、明治九年(1876年)に念願の日本初の民間銀行、三井銀行を設立します。また、利左衛門は旧三井物産の設立にも関わっています。
小栗上野介忠順の家族と三野村利左衛門
以上のように、三野村利左衛門は三井家の大番頭として幕末から明治の時期に大きな足跡を残します。しかし、もう一つ忘れてはならないのは小栗上野介忠順の家族との関係です。
忠順が役職を辞して、上野の領地に引き下がるとき、忠順に危険が迫ることを危惧していた利左衛門は千両箱とともにアメリカへの亡命を勧めます。しかし、忠順はそれを断り、家族が困窮したときの助力を頼みました。
小栗上野介忠順と養子の忠道が処刑された後、忠順の母、妻、養女や家臣は会津へ逃げ延びます。その後、明治二年(1869年)に東京に戻った忠順の家族を世話したのが、かつて中間として仕えていた三野村利左衛門でした。忠順との約束を忠実に実行しています。
利左衛門は明治十年(1877年)に波乱の生涯を閉じますが、終生、忠順の家族の面倒を見続けました。利左衛門の死去後も、明治十八年(1885年)に小栗忠順の妻、道子が亡くなり、その子、国子を親族の大隈重信が引き取るまで三野村家が引き続き世話を続けていました。
その後、国子は矢野龍渓の弟・貞雄を婿にして小栗家を再興しており、ここに至るまで三野村家の尽力は多大なるものがあったと思われます。こうした長年月にわたる小栗家への援助は利左衛門の人柄を示すエピソードと言えます。





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