2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」では中村倫也が吉田松陰役を演じています。
![]() |
吉田松陰とは
明治維新を牽引した長州藩。その長州の精神的指導者となったのが吉田松陰です。ここでは吉田松陰の足跡をたどってみます。
兵学者として
兵学師範 吉田家
吉田松陰は文政十三年(1830年)に長州藩の家禄26石の下級武士、杉常道の次男として生まれました。幼名は寅之助、名は矩方(のりかた)、通称は寅次郎です。一般に知られている「松陰」というのは号です。
その後、叔父、吉田大助の死去に伴い、幼くして家禄57石の吉田家を継ぎます。吉田家は長州藩の山鹿流兵学師範の家であり、松陰は兵学師範になることが義務付けられました。
先代が亡くなっていたことから、実際の兵学はもう一人の叔父で、玉木家(家禄40石)を継いでいた玉木文之進から学びます。松陰はこの文之進から厳しい教育を受けたことで知られています。文之進は天保十三年(1842年)に松下村塾という私塾を開いており、後に吉田松陰がそれを受け継ぎます。
また、長州藩士の山田亦介(またすけ)から長沼流軍学も学んでいます。長沼流は山鹿流とともに軍学の五大流派の一つです。
藩校 明倫館
長州藩には全国屈指の藩校である明倫館がありました。松陰はそこで兵学師範として兵学を講じています。天保十一年(1840年)、わずか11歳で長州藩主、毛利敬親に対して「武教全書」の御前講義を行いました。これにより藩主から才を認められ、その後の遊学等の支援につながります。

当時の弟子としては桂小五郎や山県有朋などがいます。
遊学時代
その後、各地を遊歴し、知識、見聞を広げていきます。
九州遊学
嘉永三年(1850年)、松陰は見聞を広めるべく、藩の許しを得て九州を遊学します。肥前平戸には松陰の家学である山鹿流の山鹿万助がおり、また、佐藤一斎に学び海防にも通じた葉山佐内もいました。
佐内には「辺備摘案」という著書があり、これらの蔵書を借り受け筆写しています。佐内との交流で国防に関して大きく目が開かれたようです。特にアヘン戦争で清国が破れたことで、西洋兵学の必要性を実感したと思われます。
江戸遊学
嘉永四年(1851年)、松陰は藩主の参勤交代に付いて江戸に行きます。そして、佐久間象山、安積艮斎、山鹿素水、豊島権平、古河謹一郎などから兵学を中心に経学など幅広く学びました。また、同じ山鹿流軍学を学んでいた10歳上の熊本藩士、宮部鼎蔵と交友関係を深めます。
宮部鼎蔵は後に尊王攘夷派の活動家として知られるようになりますが、池田屋事件で亡くなります。
東北行きと脱藩
嘉永四年(1851年)の十二月、松陰は宮部鼎蔵と盛岡藩を脱藩した江帾五郎と東北遊歴を計画します。東北はロシア船など外国船の出没していた地域でした。
この遊歴は藩にも認められていましたが、藩主が国元に帰ってしまっていたので、過書手形、いわゆる通行証が発行できないことが分かりました。国元に飛脚を飛ばしてもかなりの日数がかかります。そのため、仲間との約束を優先した松陰は何と脱藩をして東北に向かいます。
東北遊歴では水戸藩の会沢正志斎と面識を得るなど、人的交流とともに、国防的視点で津軽海峡を視察しています。
それにしても脱藩という重罪を犯したわけですが、思い立ったら即行動する直情型の松陰らしい判断でした。しかし、これにより長州藩から士籍剥奪、家禄没収の処分を受けます。
その後、松陰を高く評価していた藩主の毛利敬親は、松陰に10年間、遊学することを許可します。これにより再び江戸に出ることができました。
ペリー来航と密航未遂
嘉永六年(1853年)、ペリーが浦賀に来航します。松陰は師の佐久間象山と共に視察に行きます。翌嘉永七年(1854年)年、ペリーが再来すると弟子の金子重之輔とともに密航を企て、下田へ向かいます。
皮膚病の治療で立ち寄った蓮台寺の温泉で知り合った医者、村山行馬郎の厚意で彼の家に泊まらせてもらい機会を待ちます。
その後、柿崎の弁天島付近から小さな船に乗って米軍艦に近寄り乗船しますが、拒否されたためやむなく戻ります。
つまり、アメリカへの密航は失敗に終わるわけですが、松陰らは自ら自首します。これにより、現地で投獄され、その後、江戸の伝馬町牢屋敷に送られます。
死罪など厳罰に処すべきという意見もある中、国許蟄居という比較的軽い処分で済みました。それは開国派の旗本、川路聖謨(かわじ としあきら)を通じて、老中筆頭の阿部正弘や、同じく老中で開国派の松平忠固(ただかた)によるものでした。
野山獄にて
国許に護送された松陰は士分以上の者が入る萩の野山獄に入れられます。また、弟子の金子重之輔は一般の者が入る岩倉獄に入りますが、安政二年(1855年)に病死してしまいます。
野山獄では共に収監されている囚人に対し、論語や孟子を講義します。囚人の中には富永有隣や高須久子がいました。ここでの講義は「講孟余話」としてまとめられています。
![]() |
また、獄中で渡航の動機を語った「幽囚録」もあります。
![]() |
安政二年(1855年)に野山獄への収監から生家の杉家での蟄居処分に変わり、家に戻ることができます。
松下村塾
安政四年(1857年)に松陰は松下村塾を受け継ぎ、杉家の敷地内で塾を開きます。松下村塾からは明治維新を牽引した多くの人物を輩出しました。特に双璧と言われたのが高杉晋作と久坂玄瑞です。

双璧の一人 久坂玄瑞

『幕末・明治・大正回顧八十年史』第3輯,東洋文化協会,昭和9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1109561 (参照 2026-10-20)
久坂玄瑞の妻は松陰の妹、文であることから、玄瑞は松陰の義弟になります。
因みに2015年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」は吉田松陰の妹で久坂玄瑞の妻となる杉文が主人公でした。
![]() |
また、池田屋事件で亡くなった吉田稔麿と禁門の変で亡くなった入江九一を合わせて松門の四天王と呼ばれています。
他にも伊藤博文、山形有朋、品川弥次郎、山田顕義等、綺羅星のごとく人材が出ています。
松下村塾の特徴
松下村塾では教える側と教わる側に上下関係ではなく、相互に尊重する姿勢を求めていました。よく言われるように松陰は自分を「僕」、弟子を尊称である「君」と呼んでいました。
また、机の上の学問だけでなく、実践的な行動も重視していました。例えば、日米修好通商条約に憤りを覚えた松陰は上洛する老中、間部詮勝を捉えて条約破棄と攘夷を迫る間部要撃策(暗殺も考慮されていた)や、藩主を伏見で待ち、共に京都に入り活動家の公家と面会させ、幕府との対立をけしかける伏見要駕策(ふしみようがさく)などテロリズムを含む過激な行動を模索します。
あまりの過激さに、さすがに弟子も反対するほどでした。間部要撃策では松陰は藩に武器の調達を求めています。
最早、倒幕まで考えているため、さすがに長州藩の上層部も見過ごせず、松陰を再び野山獄に送ります。
安政の大獄
上記の日米修好通商条約は安政五年(1858年)に調印されますが、朝廷の許可を得ずに調印したいわゆる違勅調印の問題や13代将軍家定の後継を決める将軍継嗣問題をめぐる対立も絡み、大きな問題となります。
これを強行突破すべく大老、井伊直弼が行ったのが安政の大獄です。これにより多くの志士が囚われます。その主要な志士の一人が元、小浜藩士の梅田雲浜です。雲浜は後に獄死しています。松陰はこの雲浜と萩で会っていました。また、伏見要駕策を立案したのは雲浜門下の大高又次郎や平島武次郎でした。
こうした関係から、松陰も連座し江戸伝馬町牢屋敷に収監されました。問題となっていたのは雲浜との関係でした。うまく言い逃れれば命に関わることはなかったでしょう。
しかし、取り調べにおいて松陰は自ら老中暗殺計画を暴露してしまいます。これにより安政六年(1859年)に斬首となります。
吉田松陰の墓
吉田松陰の墓は松陰生誕の地に隣接した風光明媚な場所にあります。ここには一族の他、高杉晋作や久坂玄瑞などの墓所もあります。






コメント