「逆賊の幕臣」滝川 具挙(たきがわ ともたか)

逆賊の幕臣

2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」では宮野真守が滝川具挙役を演じています。

滝川具挙とは

滝川具挙は家禄1200石の旗本、滝川具近(たきがわ ともちか)の子として生まれました。旗本としては上の下という感じで、まずまずの家柄だったと言えます。父、具近は役高1000石の使番(つかいばん)を務めていました。使番は布衣役(6位相当)です。

弘化二年(1845年)の弘化武鑑には、滝川具近が使番の項に「滝川三郎四郎」という名で掲載されています。

滝川具挙(ともたか)は幼名は銀蔵で、最初、具知(ともさと)と称していましたが、その後、具挙に名を変えています。通称は滝川家の家督の者が代々、使っている三郎四郎という名を用いています。

小さい時から安積艮斎の塾で学んでいます。

順調な出世で外国奉行 播磨守叙任

弘化四年(1847年)には小姓組に入ります。小姓組は書院番とともに両番と称され、その後、出世が期待できるポストです。

安政六年(1859年)には小十人頭になり、万延元年(1860年)には出世の登竜門ともいえる目付に就任します。小十人頭と目付はともに役高1,000石の布衣役(6位相当)でした。

こうして順調に出世を遂げ、同年のうちに外国奉行に昇進するとともに従五位下播磨守の官位を授かります。以下のように万延二年(1861年)の大成武鑑には役高2000石の外国奉行「滝川播磨守具挙」として掲載されています。

京都での活動 京都西町奉行

翌年には神奈川奉行、さらに禁裏付となり、京都に赴任します。以下の文久二年(1862年)の大成武鑑には文久元年から「禁裡附」に就いていると記載されています。

京都滞在中の文久二年(1862年)に京都西町奉行となります。京都を中心に政治が激動する中、会津藩主松平容保が京都守護職に就任し、共に京都の治安を守るべく奮闘します。

翌文久三年(1863年)にいわゆる「八月十八日の政変」が起こります。これは会津藩や薩摩藩などにより、急進的な攘夷を主張する公家と長州藩を京都から排除したクーデターです。翌元治元年(1864年)には排除された長州藩が反撃のため京都に進撃し武力衝突が起こります。いわゆる禁門の変です。

激戦地となった蛤御門

この際、生じた火災はどんどん広がったため、「どんどん焼け」とも呼ばれ、京都の約半数が焼ける事態となりました。火災が迫る中、生野の変や天誅組の変などで捕縛され、六角獄舎に収容されていた平野国臣などを含む志士ら33人は解き放たれることなく、脱走を防ぐためとして斬罪にされました。これは西町奉行だった滝川の判断とされています。因みに火事は六角獄舎には及びませんでした。

この年、滝川は引き続き京都に駐在しつつ大目付に昇進します。大目付は3000石高の役職です。慶応三年(1867年)の大成武鑑にも大目付として掲載されています。

幕末の政局と滝川具挙

禁裏御守衛総督となっていた徳川慶喜は京都に赴任していましたが、西進してきた水戸の天狗党を迎え撃つため出陣します。その際、滝川具挙もそれに同行します。

また、慶応元年(1865年)に将軍徳川家茂が第二次長州征伐のため大阪に来ると、大坂で将軍を補佐します。翌年、家茂が死去すると江戸に戻ります。

以上のように幕府側の要職に就いていた滝川は激動する情勢の中、様々な場面で動いていることがわかります。

幕府主戦派としての滝川具挙

鳥羽伏見の戦い

慶応三年(1867年)に大政奉還により、将軍徳川慶喜は政権を朝廷に返上します。滝川はこれに反対でしたが、倒幕の密勅が下りる中、その機先を制することになりました。しかし、江戸での討幕派の挑発から江戸薩摩藩邸が焼討されるという事件が起きます。

こうした江戸の情勢を受けて、幕府陸軍の歩兵部隊が軍艦順動丸に乗って大阪に派遣されます。大目付だった滝川や勘定奉行の小野広胖らもこれに同行し、大阪城にいた将軍慶喜に江戸の情勢を知らせます。そこで京都への進軍を主張し、幕府と討幕派の衝突は避けられないものとなりました。

翌、慶応四年(1868年)に京都への進撃が開始され、滝川具挙は「討薩表」という薩摩弾劾書を京都に届ける使者となり、京都へ向かいます。しかし、これを阻止する薩摩兵との間で打ち合いが始まります。これが鳥羽伏見の戦いの直接のきっかけとなりました。これらの経過から、滝川具挙は幕府主戦派として大きな役割を果たしていたとされています。

江戸では将軍慶喜が恭順する中、主戦派は役を解かれますが、滝川も大目付解任、官位取り上げ、江戸城登城禁止となります。さらに逼迫処分となり、新政府からは永蟄居の処分を受けました。

明治以降

その後は徳川家16代目となった徳川家達の駿府への移動と共に駿府に移り、明治二年(1869年)に家督は次男の具和(ともかず)に譲ります。晩年には東京に戻り、明治十四年(1881年)に亡くなります。

長男、具綏(ともやす)は討幕軍に徹底抗戦するため、鳥羽伏見の戦いをはじめ戊辰戦争で戦い、榎本武揚とともに函館戦争にも参戦しています。後に許され日本陸軍に入りますが、西南戦争で戦死しています。

家督を継いだ具和(ともかず)は後に海軍少将になっています。

コメント