「逆賊の幕臣」新見 正興(しんみ まさおき)

逆賊の幕臣

新見豊前守正興とは

新見正興は万延元年に幕府が派遣した遣米使節において正使だった人物です。副使は村垣範正、目付は小栗忠順が務めました。ここでは新見正興について見ていきます。

新見家と三浦家

新見正興は文政五年(1822年)、旗本、三浦義韶の次男、三浦房次郎して生まれました。

実父:三浦義韶

実父の三浦義韶は御先手鉄砲頭を務めています。

以下の、嘉永七年(1854年)の大成武鑑を見ると御先手鉄砲頭の項に「三浦美作守」として記載されています。家禄は500俵であったことがわかります。三浦家は9代将軍家重の側室となり、御三卿の清水家の初代当主、清水重好を産んだ安祥院の実家であったことから旗本に取り立てられた家です。

実父の三浦義韶は元々、旗本、新見家に生まれましたが、兄、正路(まさみち)が家督を継ぎ、自身は三浦家に養子として入りました。

新見家に養子に行く

しかし、生家である新見家では長男、次男が早くに亡くなり、三男の郁三郎(正典)がまだ幼かったことから、文政十二年(1829年)に房次郎が新見家の養子となり新見正興と名乗ります。

つまり、正興は伯父である新見正路の養子となったわけです。

因みに、新見は元々「にいみ」と呼ばれていましたが、徳川家康の命で「しんみ」と呼び方を変えました。家紋は新見葦と呼ばれる葦の葉が一枚描かれた紋章です。

養父、新見伊賀守正路

養父、新見正路は小姓組から目付を経て、文政十二年(1829年)に役高1500石の大坂西町奉行と順調に昇進を重ねます。大坂町奉行は従五位下で諸大夫相当の役職です。

文政十二年の文政武鑑を見ると、以下のように記載されています。伊賀守を名乗っており、家禄は811石5斗となっています。

その後、後に12代将軍となる家慶のいた西ノ丸の小姓組番頭格、奥勤西ノ丸御用取次見習などを経て、天保十二年(1841年)には将軍の側近職である役高5000石の御側御用取次にまで昇進します。これにより、家禄は2000石に加増されます。

ここで家禄が2000石となったことで、後述するように、その後、新見正興に影響します。

以下の天保十四年(1843年)の大成武鑑を見ると、家禄が「二千石」と記載されていることがわかります。

旗本として大出世したわけですが、天保十四年(1843年)に役を免じられます。これは天保の改革に失敗した水野忠邦と近かったためとされています。

また、正路は文化的な活動(詩歌、古文や賜蘆文庫(しろぶんこ)の創設など)でも知られています。そして、嘉永元年(1848年)にその生涯を閉じます。

新見豊前守正興

新見家に養子に入った正興は天保十年(1839年)、18歳の時、小姓、その後、中奥小姓に任じられます。

天保十四年の大成武鑑を見ると、「御小姓衆」にその名が見えます。豊前守となっていることがわかります。

嘉永元年(1848年)に養父、新見正路が亡くなり、正興が家督を継ぎます。以後、安政元年(1854年)に小普請組支配、同三年(1856年)には小姓組番頭と役職を歴任し、同六年(1856年)七月に外国奉行に任じられ、翌月には神奈川奉行と兼任することになります。

万延元年遣米使節の正使に就任

ちょうど前年の安政五年(1855年)にアメリカとの間で日米修好通商条約が調印されます。その批准書を交換するため、アメリカへ使節が派遣されることになります。その使節の正使として外国奉行だった新見正興に白羽の矢が立ちます。

副使には同じく外国奉行である村垣淡路守範正が任じられます。村垣は安政五年(1855)に外国奉行に任じられ、また翌年に神奈川奉行を兼任しており、新見より先任でした。ですが、家禄200俵と少禄の村垣に対し、新見は家禄2000石だったことで正使に選ばれました。

養父の新見正路が御側御用取次となり、家禄が2000石に加増されていたことが影響したと言えます。

以下の写真はワシントンのホテルで撮られたものです。真ん中が正使の新見正興、向かって左が副使の村垣範正、右が目付の小栗忠順です

The Japanese Ambassadors of the first Japanese mission to the US in 1860.

アメリカ訪問

一行はアメリカの軍艦ポーハタン号に乗船し、ハワイを経て、サンフランシスコ、そしてパナマまでの太平洋横断を敢行しています。

正使、副使、目付は共に9人の従者を連れていました。正使、新見正興の従者は以下の9人です。

新見正興の従者

ジェームズ・ブキャナン大統領に謁見

ワシントンでは正使としてアメリカ第15代大統領、ジェームズ・ブキャナンに謁見するとともにし、当初の目的である条約の批准所の交換も無事、終えました。

以下は、正使、副使、目付とともにホワイトハウスで大統領に謁見している場面です。

史料:東洋文化協会 編『幕末・明治・大正回顧八十年史』第2輯,東洋文化協会,昭和10年. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/8797958 (参照 2026-10-24)

帰国後

以下は万延二年(1861年)の大成武鑑に掲載された外国奉行の項目です。アメリカ訪問の功により、新見正興は2000石から2300石へ、村垣範正は200俵から500石へ加増されていることが分かります。

その後、伊勢守に名乗りを変え、文久二年(1862年)、役高5000石の側衆に任じられます。そして、元治元年(1865年)にお役御免となり、慶応二年(1862年)に隠居し、先代の新見正路の子、正典に家督を譲ります。これは三浦家から養子で入った正興が、先代の新見家の血筋に家督を返した形になります。隠居に伴い、隠居料500俵が支給されます。

米国派遣使節の正使という大任を果たした正興ですが、近代化、軍事化などの改革にそれを生かした小栗忠順とは違い、そうした活動は見られなかったようです。

晩年

養父、新見正路は文化的な活動でも知られていますが、正興もアメリカ派遣時に紀行歌文集「亜行詠」(あこうえい)を残しています。隠居後は閑水と号しています。

しかし、幕府の滅亡から明治へと移り変わる中、明治元年(1868年)に武蔵国下奥富村に帰農し、翌明治二年(1869年)に病気で亡くなりました。享年48歳。

新見正興の墓

お墓は東京都中野区にある浄土真宗大谷派の願正寺にあります。元々は現在の新宿区原町にお墓がありましたが、寺院の移転と共に現在の場所に移っています。法名は正興院殿釈閑水遊翁大居士です。

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