小栗鉞子とは
小栗忠順の養女
小栗鉞子(よきこ)は旗本、日下数馬の娘として安政元年(1854年)に生まれました。
父の日下数馬の姉が小栗くに子で、その息子が小栗上野介忠順です。従って、忠順と鉞子はいとこ同士の関係です。
父の日下数馬は元々、小栗家当主の小栗忠清の子として生まれましたが、日下家に養子に行きました。小栗家はくに子の婿、小栗忠高が継いでいます。
小栗忠順と妻、道子の間には長らく子供がいませんでした。そのため鉞子を6歳の頃、養女に迎えました。
小栗鉞子の家系関連図

日下家と小栗家は同じ駿河台にあり、すぐ近所でした。
日下家と小栗家の位置図

許嫁(いいなずけ)の小栗忠道
この鉞子の許嫁として、旗本、駒井朝温の次男、忠道を養子に迎え、忠道に小栗家を継がせる予定でした。

忠道は養父、小栗忠順や栗本鋤雲が設立にかかわった横浜仏語伝習所の第一期生となります。また、幕府の歩兵差図役頭取に就任するなど今後の活躍が期待されていました。
上野国権田村
しかし、時代の流れは幕臣たちの予想だにしない方向に行き、大政奉還、そして鳥羽伏見の戦いが勃発します。
そうした中、小栗忠順は討幕軍への徹底抗戦を主張しましたが、将軍、慶喜に入れられず、お役御免を言い渡されます。これにより、領地のあった上野国権田村(群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書を出し、家族と共に権田村に去ります。
もちろん鉞子も一緒に権田村へ行きます。この地で新しい人生を歩み始める…はずでした。
会津への決死の脱出
すでに帰農していた小栗家ですが、討幕軍はそれを許さず、養父の小栗忠順と家臣を取り調べもなく斬首します。また、鉞子の許嫁、小栗忠道も翌日に斬られます。
こうした事態も考慮し、忠順は家族に会津へ逃げるように指示していました。小栗一家である鉞子と養母の道子、養祖母で実の伯母でもあるくに子は家臣たちと会津を目指して脱出します。養母、道子は身重の体でした。
苦難の末に会津にたどり着き、道子は会津の野戦病院で娘の国子を出産します。
明治初期の小栗家と小栗鉞子
その後、小栗家の女性は翌明治二年(1869年)に東京に戻りました。
徳川家が移った静岡に行った後、東京に行ったか、あるいは会津から東京に行き、その後、静岡に行った後、再び東京に戻ったかのいずれかとされています。
東京ではかつて小栗家に仕えていたことがある三井家の大番頭格である三野村利左衛門の世話になり、生活しました。
小栗鉞子は静岡までは同行していたようですが、その後の消息はわからないようです。
小栗鉞子の行方
養父、小栗忠順及び許嫁の小栗忠道が殺され、実父、日下数馬も明治三年(1870年)に困窮状態の中、亡くなっています。小栗家の女性は三野村利左衛門の世話になり生活している中、鉞子がこれらかの人生をどう判断したのでしょうか?
ただ、その後の行方を示唆する以下のような記録もありますが、決定的な情報は無いようです。
明治三年に横浜からイギリスへ出国した女性が鉞子である可能性が述べられており、また、明治28年に小栗家の墓がある東禅寺で黒紋付に紫の高祖頭巾の女性が小栗家の墓前で長い祈りを捧げていたことされています。墓前には鼈甲の櫛とかんざしが供えられていたとされ、この女性があるいは…とも言われています。


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