「逆賊の幕臣」叔父:日下 数馬(くさか かずま)

逆賊の幕臣

日下数馬とは

小栗庄次郎から日下数馬へ

日下数馬(小栗庄次郎)の実父は、旗本、三河小栗家の当主、小栗忠清です。小栗忠清には長らく跡取りの息子がいなかったため、二軒隣の旗本、中川飛騨守忠英の四男、小栗忠高を養子に取ります。

この養子、忠高が忠清の娘、つまり、庄次郎の姉であるくに子と結婚し、小栗家を継いでいます。忠高夫妻の息子が小栗上野介忠順です。つまり、小栗忠順にとって、日下数馬(庄次郎)は叔父に当たります。

文化十年(1813年)に父、忠清が亡くなりますが、庄次郎が生まれたのもこの頃のようです。既に跡取りは養子の忠高となっていたため、庄次郎は他家に養子に行くことになります。

天保八年(1837年)、20代半ばの頃、庄次郎は旗本、日下安太郎房重の養子となります。そして、日下数馬房元と名を変えます。

日下数馬の家系関連図

日下数馬の家は駿河台にあり小栗家の近くでした。

日下家と小栗家の位置図

鉄砲玉薬奉行・腰物奉行・納戸頭を歴任

鉄砲玉薬奉行

役職としては元治元年(1864年)に鉄砲玉薬奉行に就いています。以下の「新板改正元治武鑑」に記載されています。鉄砲玉薬奉行は役高700石の布衣役で、その名の通り、火薬の製造及び監理の責任者です。また、日下数馬の家禄は700石と記載されています。

資料:国立公文書館所蔵「新板改正元治武鑑」

腰物奉行

慶応二年(1866年)の大成武鑑には腰物奉行として日下数馬の名が記されています。腰物奉行は役高700石の布衣役で、将軍の身に着ける刀はもちろん、刀剣の献上や下賜など、刀剣に関する一切を取り仕切る役割です。

納戸頭

慶応三年(1867年)の有司武鑑には「御納戸頭」として記載されています。納戸頭も役高700石の布衣役です。将軍の使用する金銀、衣服、調度品などはもちろん、献上品や下賜など管理全般を担う役割でした。

この人事は前職の腰物奉行職が慶応二年(1866年)に廃止され、その職務を納戸方が兼務するようになったことと関係しているかもしれません。

小栗忠順の養女 鉞子(よきこ)

小栗忠順夫婦に子供がいなかったため、日下数馬の娘、忠順からみると従妹に当たる鉞子(よきこ)を6歳の時に養女としました。

また、旗本、駒井朝温の次男、忠道を小栗家の養子に迎え、鉞子の許嫁としました。そして、将来、二人に家を継がせるつもりでした。しかし、残念ながら忠道は小栗忠順が処刑された翌日に、高崎で処刑されてしまいました。

その後、鉞子は養母、小栗道子や、養祖母で実の伯母でもある、くに子らと会津を目指して落ち延びる苦難の逃避行をしました。明治以降、静岡に移住した後は消息がわかっていません。

養子:日下寿之助

慶応四年(1868年)に家督を養子の日下寿之助に譲りました。寿之助は洋学に精通したものを集めた蕃書調所で句読教授方出役などを務めています。

以下は蕃書調所の職員録ですが、日下寿之助について記載されています。

蕃書調所 御支配明細帳

また、蘭学者で三河田原藩の隠居格であった三宅友信が蕃書調所に入っていましたが、娘の錫が日下寿之助の妻となっていたようです。

明治以降の日下数馬

小栗忠順とは叔父と甥の関係というだけでなく、娘の鉞子(よきこ)を養女に出していることもあり、非常に近い関係にありました。

忠順が職を解任され、所領のあった上野国権田村に行くとき、数馬は100両を貸与しています。これは餞別なのか、あるいは何かの時に助けてほしいと言う意味なのかはわかっていません。

しかし、頼れる親族だった小栗家も忠順、忠道が殺され、女性達はかつての従者、三野村利左衛門の援助で暮らしている状態でした。

日下数馬の墓

そうした中、日下数馬は家禄を失い、茨城県龍ケ崎市の正願寺に隠棲し、貧窮の中、明治三年(1870年)に生涯を閉じました。

墓は真言宗の正願寺にあり、法名は温敬院殿常慶有誉良僊居士です。

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